第43話 Time to pregnancy
- 2023年12月25日
- 院長・医局
“Time to pregnancy”(治療開始から妊娠に至るまでの時間の最短化をめざす)-ここ1,2年、生殖医学関係の学会でよく見聞きするスローガンです。
この前には“Squeeze all, Freeze all”(多量の排卵誘発剤を使用して、できるだけ多くの卵子を卵巣から絞り出し(squeeze)、採卵された卵を着床直前の段階まで培養液の中で育てて凍結し(freeze)、移植を目指す)というスローガンのもとに、多くの発表が行われていたように記憶しています。
そもそもスローガンは、ある組織や団体の活動精神や目的を簡潔かつ印象的な言葉にしたもので、その価値観を瞬時に伝える力があるそうです。
これと似た言葉にキャッチコピーとクレドがあります。
キャッチコピーは、顧客の注目を引くための宣伝文句で、サービスの特長やメリットを短く印象的に伝える役割をします。例えば“顧客満足度95%!”とか“業界最安値に挑戦!”のように、特定のアピールポイントを強調するためのものです。
クレドは、少し聞きなれない言葉ですが、Creditなどと語源が同じで「信じる」という意味があり、企業の信条や約束事を示す言葉です。クレドは主に社内向けで、従業員の行動規範や心構えを示すものだそうです。
つまり、スローガンは企業の方向性、キャッチコピーは商品やサービスの魅力、クレドは社内の行動基準を示す言葉と考えてよいかと思います。
私にはスローガンというものがどこか全体主義的で、大ざっぱで、小さいけれども大切な真実を飲み込んでしまうリスクを孕んでいるように感じ、肌に合いません。
“Squeeze All, Freeze All.”の時には、
“10個以上の凍結卵ができて、1回目或いは2回目の胚移植で妊娠が成立し、それ以上患者さんがお子さんを希望されない場合、赤ちゃんになる可能性のある残りの卵は廃棄されることになりますが、そこには倫理的な問題はないのでしょうか?”
と尋ねたことがありますが、
“欧米のデータではこの方法がもっとも効率が良いと出ています。”
という答えが返って来ました。
そして、多くの施設が何の疑問もなくこの方法に追従してきたわけです。
しかし、その後欧米の国々ではSqueeze allではなく、多量の排卵誘発剤の使用から適切な卵巣刺激を模索する方向に流れが変わり、最近では、このスローガンを見聞きすることは少なくなってきています。
このスローガンを信じて治療された患者さん達の、高額な治療費や大変だった腹満感や採卵、そして余剰卵を廃棄するときの戸惑いや葛藤は、この方法がその時代のスタンダードだったからという言い訳のもとに、時の流れの中に忘れ去られていくのでしょうか。
そして、最近よく使われている“Time to pregnancy”ですが、このスローガンは治療に入れば遅かれ早かれ必ず妊娠できるが、それまでの時間をどれだけ短縮できるかが問題の時代に入ったという印象を聴く人に与えてしまうように私には思われます。
確かに、若い方の出産率は高いですが、それでもようやく50-60%を超えるに過ぎません。全体とすれば治療した方の高々30%しか成功しないのが現状です。そのような治療法のスローガンとして“Time to pregnancy”は私にはとても違和感があります。そればかりか、優先度の低い検査や有用性の定まっていない高額な検査が“早く妊娠するために、念のためにやっておきましょう。”という言葉と共に行われがちになり、高額で無駄の多い検査漬けの治療法の誘因になる可能性があると思います。
これまでの治療経験を振り返ると、本当に必要な検査はそれほど多くはありません。
YSYCでは“Time to pregnancy”が検査漬け治療のキャッチコピーにならないように、本当に必要な検査を見極めて無駄のない治療を目指していきたいと考えています。
そして、“Quality to pregnancy”をクレドとしてスタッフ一同、心を一つにして治療に臨んでいきたいと考えています。
2023年12月25日 院長 山下直樹