第14話 “さみしくなるね”
- 2016年5月27日
- 院長・医局
2016年4月17日母が86歳で人生の幕を閉じました。
つい2か月ほど前までは介護施設に入院している父の為に弁当を作り、車を運転して届けていた元気な姿からは予期することができない急な転帰でした。
長年、肝臓の病を患っていたのですが、病名を告知されても少しも動じることなく、1年でも2年でも長生きをして家族や孫たちの成長を見守りたいと、主治医の指示を守り節制をし、治療にいそしんできました。昨年11月には、最先端医療の陽子線治療を受けるため、霙混じりの悪天候の中を自宅のある金沢から福井市まで1か月間毎日通院しました。治療後、“こんな高額な治療を受けることができたのはあなたのお陰だ。恩に報いるためにももう少し長生きするよ。” と家族の写真を整理したアルバムを開きながら話していました。
しかし、そんな平穏な日々はあっけなく終わりを告げました。
“2月20日に大学病院に検査入院するように言われた。一度、病状について直接お話ししたいと先生が話しているから来てほしい。” と母から連絡が入りました。
予定外の検査入院。嫌な響きの言葉でした。
主治医から招き入れられた説明室のシャーカステンには既に何枚ものMRフィルムが用意されていました。改めて説明を受けるまでもなく、癌病巣が蜘蛛の子を散らしたように肝臓内、頸椎、胸椎、そして皮下にまで散らばっているのがわかりました。主治医から “あまりにも急で、なにが原因かはっきりわからないのですが、一塊だった腫瘍が全身に転移している影が見られます。血液検査の結果も急激に悪くなっています…。” と説明を受けました。職業柄、医療がなかなか思い通りにいかないものであることは十分に承知しているので “わかりました。できるだけ苦しまないようにしていただけたらと思います。” と言って部屋を後にしました。
母の容体は週単位で悪くなっていきました。
“個室は淋しいから大部屋にしてほしい。”
“すぐにお友達ができた。とても親切にしてくださるから嬉しい。”
と話していた母が次に見舞いに行くと
“大部屋は話し声がやかましいから個室を頼んでもらえないか。”
“もう一回頑張って病気を治してみるね。”
と前向きだった母が
“こんなに辛いのなら死んだ方がまし。”
と弱音を吐くようになっていきました。
“痛みが止まらないのだけどどうしたらいいだろう。忙しいかもしれないけど会いに来てほしい。” 母から連絡が入るときは決まって朝の7時。夜中中痛かっただろうに、私の仕事の邪魔にならないよう気遣って連絡するのを朝まで我慢していたのだろうと思うととても不憫に思われました。藤沢と金沢を1-2週間に一度の割合で土曜日の診療を終えて金沢に戻り月曜の朝にこちらに戻るという日々が続きました。
間もなく、食事は喉を通らなくなり点滴だけが母の命を繋ぐ糧となりました。母の意識があるうちに父に一目でも会わせたいと思い、麻薬が効き痛みが落ち着く時間帯を見計らって、車椅子付きのレンタカーを借りて父を施設から母の病床に連れてきました。父の乗った車椅子を押して病室に入ると、見る影もないほど痩せてしまった母を見て “かあさん…こんな小さくなって。” 耳が遠くなり最近は滅多に自分からものを言わなくなった父がそう言いながら母の手を握りしめました。母は父が来たことが分かったらしく少し目を開けてしきりに小さく頷いていました。それから静かな時間が流れました。 “そろそろ、帰ろう。” と父に呼びかけると “わしはここにいる!” と駄々っ子のように帰ることを拒みました。若い頃はよく喧嘩をしていた両親ですが夫婦の絆を見たような気がしました。
“大学病院は完全看護ですから付き添いは大丈夫です。容体が急変したらすぐに連絡しますからお家で休んでいてください。” と看護師から言われていたのですが、母の最期は自分で看取りたいと思いました。呼びかけると力の無い目を開け氷ひとつほおばるのがやっとになってしまった夜から病床に付き添うことにしました。
付き添い用のギシギシ音を立てる狭く堅いベッド、マスクに流れ込む酸素の音、モニターの無機質なアラーム音、母のうめき声。病室の中は不安な賑やかさでした。母は朦朧とした意識の中で子供が嫌々するようにしきりに首を左右に振りました。閻魔様がそろそろこちらに来なさいと言うのを必死に拒絶して死線を彷徨っているのだろうなと感じました。骨と皮だけになった小さな母の手を握り “今まで十分頑張って来たね。ご苦労さまだったね。” と声をかけました。なんのてらいもなく母の手を握ったのは子供の頃以来だなと思いました。
そして、最後の夜が明けました。
時折、母は虚ろな目を開け、何か言おうとしました。 “なんて言ったの?” と呟くと “最初は「あ」だよ、きっとありがとうって言ってるんだと思う” と傍らで妻が答えました。
20時57分、一生懸命に育て守ってきた家族に囲まれて母の最後の呼吸が止まりました。母の周りにはすべてを吸い込むような静けさがありました。
母と過ごしたかけがえのない時間でした。
葬儀の日、弔問にいらした皆さんが口を揃えて “お母さんが亡くなられてさみしくなるね” と挨拶されていきました。 “いいえ、母もずっと頑張ってきたし、私たちもできることは一生懸命やってきたから今は爽やかな気持ちです。”
と私は頭を下げながら心の中で答えていました。
母の遺品を整理していると私やYSYCが掲載されている雑誌が何冊もきちんと整理して仏壇横に飾ってありました。叔母がそれを見ながら “お母さん、直樹さんが送ってくれた本を本当に嬉しそうにそして誇らしそうに私たちに見せてくれたよ。直樹さんが頑張っているのを一番喜んでくれたのは間違いなくお母さんだったよ。”
と話してくれました。
院長室の応接テーブルの上に “頼りにできるプレミアムドクターズ” という雑誌が置かれたままになっています。ずいぶん前に、私が載っているからと秘書が持ってきてくれたものです。母が生きていたら、写真載ってるよと言葉を添えてもう母に送っていただろうと思います。いつまでも所在無げに放置されている本を見て、皆さんが口を揃えて話してくれた “さみしくなるね” の意味が改めて分かったように思います。
2016年5月27日 院長 山下直樹