第18話 惜別
- 2017年7月10日
- 院長・医局
先日、開院当初から培養師としてYSYCに勤務してきた職員が退職しました。
ワーキングホリデーの資格を取りカナダへ渡り、できれば培養師としての仕事を見つけ、自分の技術と心を磨いてきたいと話していました。
開院の準備段階でまだYSYCが出来上がっていなかったため、彼女には勤務当初の3か月間を関連施設で研修してもらいました。肩身の狭い環境での先行きの見えない研修にもかかわらず、愚痴ひとつこぼさずに大学のあった筑波から東京まで片道2時間の道のりを毎日往復してくれました。その姿に彼女のバイタリティーを感じるとともに、掛け値なしにありがたさを感じました。曲がったことが大嫌いで融通が利かないところのある彼女は、人付合いは決して上手とは言えず同僚とぶつかることもありましたが、安心して仕事を任せることのできる信頼できる職員のひとりでした。
勤務最終日、彼女が私の部屋に別れの挨拶に来ました。
“長い間、ありがとうございました。”
“見知らぬ国でのチャレンジだから不安なことがたくさんあるだろうけど、実りの多い時間にできるといいね。”
“はい、頑張ります。”
“事故にあわず、元気で日本に戻ってくるのを一番に祈ってるよ。YSYCの門はずっと開けておくから。”
彼女が勤務した8年間の歳月に比べれば、口下手な二人のやりとりはあっけないほど短いものでした。しばらく間があって、もう一度
“長い間、ありがとうございました。”
という言葉と涙で潤んだ目を残して彼女は部屋を後にしていきました。
“さよならだけが人生だ”
作家の井伏鱒二さんが漢詩の一節“人生足別離”を名訳された通り、人生には数多くの別れがあります。出会いの多い人ほど多くの別れを経験しなければならないし、付合いが深ければ否応なしにその別れは辛いものになります。肉親や恋人など大切な人を失った時には、心の中にぽっかりと空洞があき、自分の存在さえ危うく感じられるような虚無感に襲われることもあるかもしれません。
生来、人に本心を打ち明けたり力を合わせて何かをしたりするよりは、独力で問題を解決し乗り越えることを好んだ私は、必要以上に深いつながりを人に求めませんでした。ですから、親友と呼べる友人はいなかったように思います。たとえ物事が思い通りに運ばなくても、自分ひとりが傷つきへこんでいればいいわけですから楽と言えば楽な生き方です。大学時代にアルバイトをしては一人旅に出る私の姿を見て、“あなたは変わった人だねえ”と社交家の母が呆れたように言っていたことを思い出します。
そんな私ですから、クリニックを開院し経営者となっても“来るものは拒まず、去る者は追わず”で、強い思い入れを持たずに職員と接していこうと考えていました。人は誰しも自分のための人生を生きているわけですから、たとえそれぞれの生きていく方向にずれが生じても、淡い付合いであれば苦い別れにならないだろうと考えていたからです。
けれども、開院して8年間の歳月が私に教えてくれたことは、どんな組織も、チームスポーツやオーケストラと同じく、構成するひとりひとりが心をひとつにして目標に立ち向かわなければ夢は何ひとつ叶わないということ、そして、人が集まり心をひとつにして目標に向かって戦っていると知らず知らずのうちに強い連帯感や絆が生まれてくるということです。一流の組織は、一見個々バラバラで自由気ままにやっているように見えても、全体として統率がとれて一種の調和を感じるのは、ひとりひとりが強い絆で結ばれているからなのだろうと思います。
今まで当たり前のように会ってきた人ともう会えなくなると思うと別れの寂しさが募ります。しかし、同じ目標に向かって献身的な時間を一緒に過ごす中で織り上げてきた絆があると、惜別の念は、夜空に煌めく星のように慎ましくもキラキラとした記憶に姿を変えて、孤独を感じた時に心を暖めてくれるように思います。
2017年7月7日 七夕に寄せて 院長 山下直樹