第22話 自分で考える大切さ
- 2018年11月1日
- 院長・医局
9月19日のNHKのクローズアップ現代で“精子力クライシス”というショッキングな題名の番組が放映されました。
“日本の男性に深刻な危機が広がっている。精子の数が少ない、ほとんど動かない、DNAが傷ついていて妊娠を成功させる力がどんどん衰えている。精子力クライシスが広がっています。”
番組の冒頭、深刻な面持ちで男性キャスターが台本を読み上げます。
そして、まるでAIDSやエボラ出血熱など恐ろしい感染症が世界中に蔓延しはじめたような危機的な文言が続きます。
一体、この番組は何を伝えようとしているのだろう?
その深刻な表情につられてテレビの前に腰を下ろしました。
しかし、唐突に話題が変わります。
“新たな問題が浮かび上がってきました。日本の体外受精の実施件数は世界最多です。しかし、成功率は最低レベルなのです。”
台湾を筆頭に米国、イギリス、韓国など体外受精成功率20-30%台の妊娠率の国が続き、一番下に妊娠率6%の日本が位置するグラフが大きく映し出されます。画面の片隅に小さく採卵周期当たりの妊娠率と表示されています。
皆さんは採卵周期あたりの妊娠率という言葉を御存じでしょうか?
欧米諸国、またはそのやり方をそのまま踏襲した国、そして日本の約70%の施設では刺激周期法と言って採卵前に排卵誘発剤を多量に注射し、一度に20個近い卵子を採取する方法を行っています。そして、その卵で受精卵を作り一旦凍結保存します。その後、卵巣が排卵誘発剤の影響から立ち直った頃、凍結した受精卵を1-2個ずつ融解して妊娠が成立するまで子宮に移植していきます。すなわち、1回の採卵で少なくても5‐6回の胚移植ができるわけです。ここで注意すべきなのは、1採卵周期で5回胚移植ができたとして、たとえ初めの4回がうまくいかなくても、最後の1回の移植で妊娠が成立すれば採卵あたりの妊娠率は100%になるわけです。しかし実際は、5回目の移植で成功したわけですから、胚移植あたりの妊娠率は20%にすぎないのです。
一方、日本では患者さんの身体的、経済的負担をできるだけ軽減するために薬を使用しない自然周期や低刺激法を使用して採卵を試みる治療が全採卵周期の約30%を占めています。この方法では1回の採卵でとれる卵の個数はせいぜい2-3個で、1回の採卵で1-2回の胚移植しかできません。たとえば、1回の採卵で1個の卵子が採れて胚移植が1回できたとします。それでうまくいかなければ、採卵あたりの妊娠率は0%になります。
野球に例えれば、刺激周期は1試合で5回打席に立って1本でもヒットを打てば試合当たりの打率は10割になります。一方、自然周期は代打のようなもので、1試合で1回打席に立って安打が出なければ打率0です。
理解していただけたでしょうか。優劣を決めるときは胚移植(打席)あたりの妊娠率で比較するのが当然であって、採卵(試合)あたりで比較すると大きな誤解を招いてしまうのです。
また、日本の生殖医療の患者さんの平均年齢は40歳に達しようとしています。フランスの平均年齢は34歳です。これは、欧米諸国では日本のように血のつながりをそれほど重要視しないため、年齢が高く体外受精の成功率が低い方たちは、養子縁組(国際縁組を含めて)や卵子バンクなどの手段を選ぶことが多いからです。
社会的背景が違う国の医療を誤った方法で比較しても何の真実も見えてきません。ただ、誤解を招くだけです。
にもかかわらず番組では追い打ちをかけるように産婦人科医が登場し、
“日本の生殖医療は営利目的で、体外受精をやらなくていい人にも行っている”
という台詞でつないでいきます。
この番組構成は、日夜休むことなく懸命に生殖医療に携わっている医療関係者には非常に失敬な話で、恣意的な悪意さえ感じます。
ところが、
“この低い妊娠率が日本人男性の精子力の低下によってもたらされている可能性があるというのです。”
と、精子力クライシスという番組タイトルに話を戻すように男性キャスターが無理やり舵を切ります。
…というのです??ってそんなことを言ってるのは誰?
ストレスの多い日本の社会が精子力クライシスをひき起こし、その結果体外受精の妊娠率を先進国最低にしているのなら、日本よりはるかに激しい競争社会で自殺率も高い韓国の妊娠率が日本より良好なのは何故??疑問が次々と湧いてきます。
そんな私を置き去りにして番組は進んでいきます。
精子力クライシスを克服するためには男性が生殖医療に積極的に参加すること。産婦人科医と泌尿器科医が協力して治療を進めていくことが必要である。として某大学の外来診療風景―小さな机を挟んで患者さん夫婦と産婦人科医そして泌尿器科医が頷き合いながら診療しているーまるで小学生の学芸会のような風景が映し出されます。
皆さんはこれまで複数の医師に同時に診察を受けたことがあるでしょうか?
ただでさえ高額な医療費が一体いくらになるでしょうか?
ただでさえ長い待ち時間が二人の医師が揃うまで何時間待つことになるでしょうか?
なにより、二人の医師がいるから良い治療法が見つかるとでもいうのでしょうか?
1人の医師がしっかりと勉強し、男性不妊にも女性不妊にも精通すればそれで済む話だと思います。
番組のここかしこで、不妊治療歴のある放送作家の男性が経験談をもとに不妊治療への男性の積極的な参加が必要だと何度も繰り返し呼びかけます。
辟易して、見るのを止めようかと思った時、泌尿器科で頻繁に行われている精索静脈瘤の手術を受け、精子のDNA正常割合が20%から30%改善し、顕微授精でうまくいかなかった妊娠が成立した。と顕微授精より精索静脈瘤手術が良かったと結論づけるような紹介があります。
顕微授精について番組では何の説明もなく悪者のような扱いを受けていますので補足しておきますと、顕微授精は精子を無作為に選択して卵子に注入しているわけではありません。
遠心分離器で重量の軽い精子を除外し、精子頭部の形に異常がないか注意深く観察し、時には水素処置を行い精子ミトコンドリアのエネルギーの有無を確認し、培養士が選りすぐり選んだ良好な精子を卵子に注入するわけです。
そのような高い精度と熟練を要する顕微授精と精巣を適温に保ち改善があるか様子をみる静脈瘤手術を同列で論ずることには無理があります。さらに言えば、両者は比較できない異質なものです。
しかし番組では、驚きも極まることに精子力クライシスを克服するには、軽めの運動、体重管理、質の高い睡眠、長風呂やサウナなど精巣を温め過ぎないなど生活習慣の改善が重要ですと締めくくるのです。
パソコンやスマホを開けば苦も無くたどり着けるような体質改善法に顕微授精が比較されるのは、顕微授精を開発し、磨き上げてきた研究者にとっては怒りや呆れを通り越して苦笑いしか出ないのではないかと思います。
私は、生殖医療は産婦人科医でも泌尿器科医でもなく生殖医療医がみるべきだと思っています。
妊娠はカップルで成し遂げる共同作業であって、男性不妊だの女性不妊だの分けて治療を進めるのは無意味だとも思います。なぜなら、妊娠の後には育児という妊娠よりさらに二人の協力が必須の作業が待っているのですから。
一般に、30分にも満たない番組で視聴者が心に残せるメッセージはせいぜいひとつかふたつです。この番組のメッセージとしては
日本の体外受精は営利目的
体外受精の成績は先進国最低
男性が泌尿器科を診察することが大切
精子所見が悪ければまず生活習慣の改善
顕微授精より精索静脈瘤手術
精子バンクが大変なことになっている
というところでしょうか。
長年お子さんに恵まれずそろそろ生殖医療をしてみようと考えていたご夫婦がこの番組を見て選んだメッセージが生活習慣を改善してしばらく様子を見ようであったなら非常に罪作りな番組だと思います。
言うまでもなく、生殖医療にとって一番大切なことは時間を無駄にしないということです。
誤解はある日突然真実となり、多くの人を惑わせ、責任を取ることもなく、いつの間にか忘れ去られていきます。
何事も、後悔の無いよう自分でよく考えて判断することがとても大切だと思います。
最後に、この番組は精子バンクの破綻にまで言及していました。
欧米では精子バンクが商業的に行われ1人のドナーから100人以上の子供が生まれているというカオスな状態。一方、日本では精子提供を受けた子供の出自を知る権利が認められたことから、ボランティアがいなくなり精子バンクが運営できなくなったという危機的な状況。
これこそ60分番組でも扱いきれない精子バンククライシスというべき深刻な社会問題です。しかし、番組は曖昧な答えしか出さないまま消化不良で終了してしまいます。
この番組のディレクターが、食材をてんこ盛りにしたぶっかけ丼を、よく味わうこともなく、がつがつとかきこんでいる姿が脳裏に浮かびました。
2018年10月31日 院長 山下直樹