第29話 蝉時雨
- 2020年9月1日
- 院長・医局
長かった今年の梅雨も終わりに近づいた七月末、クリニックの外階段で今年初めての蝉の声を聞きました。隣家の大きな木のある庭に面したこの階段で、毎年一番蝉の声を聞いてきたように思います。“今年も夏が来たんだ” 蝉の声はとても好きな風物詩のひとつです。
蝉にも鳴く順番があって、まずニイニイゼミがチーチーと先陣を切り、アブラゼミがジージー後を追い、盛夏の頃にはミンミンゼミとクマゼミがミンミン、シャアーシャアー暑さを募らせ、夏も終わりに近づいた頃ツクツクボウシが軽やかに街を彩り、心に染み入るヒグラシの声が晩夏を締めくくります。
街中で聞くとそれほどでもありませんが、大きな公園や郊外の森の中で重なりながら降り注いでくる蝉の声のシャワーを全身に浴びると、つい空を見上げて、蝉時雨という風情のある夏の季語を思いついた方の鋭い感性に感心してしまいます。
蝉の声をただの騒音としか感じない国も多いようですが、長い地中生活の末に成虫となったオス蝉が短い命を燃やし尽くすようにメスを呼び続ける魂の声にはどこか悲壮感が漂っていて、日本人の琴線を揺さぶるのではないかと思います。
COVID-19の感染蔓延から早半年になります。
毎日のようにマスコミから流されたCOVID-19への恐怖。昨日まで元気だった人の容体が急変し、あまりに突然に帰らぬ人となり、その臨終さえ立ち会えない。感染すると家庭でも職場でも村八分のように扱われ非難される。そんな受け入れがたい不合理な衝撃は、人々の人生に対する考え方に少なからず影響を与えたようです。
YSYCの診療の中でも、患者さんの考え方の変化を肌で感じることができました。
のんびりと治療していた方が治療を急ぐようになりました。そして、初診の患者さんの年齢が若くなりました。以前は30台後半から40台前半の方が多かったのですが、COVID-19以来20歳代の方がクリニックの門をたたくようになりました。
仕事優先或いは自分の人生優先の生活を送ってきた方が、未知のウイルスに命を脅かされる時代に優先すべきことは何かを自問した時、子供が欲しいと思われたのかもしれません。また、先行きが不透明な時間が足早に通り過ぎていく中で、御両親に早くお孫さんの顔を見せてあげたいと思われたのかもしれません。
ワクチンや特効薬の開発までCOVID-19を抑え込むことが難しいことが明らかになってきた昨今、三密を防ぎ、マスクの着用や手洗いを励行するという感染症予防のイロハが声高に推奨されています。何をいまさらという感もありますが、情報に振り回されることなく取捨選択し、患者さん、職場、職員、そして家族を守っていきたいと考えています。
私自身のこの半年間は、霧がかかったように記憶が曖昧な、生命感の乏しい、息苦しい日々が多かったように思います。人は元来、仲間同士が集まり、喜びを分かち合い、悲しみを慰め合う、そのような繋がりを心の糧として人生を一歩ずつ歩いていくものですから、三密を防ぎ、ソーシャルディスタンスを保ち、リモートで仕事をするような、それこそアクリル板が人間関係に挟まったような生活からは生きていくために必要な滋養や潤滑を得ることは難しいのだろうと思います。
私に仕事をする力を与えてくれる患者さんの笑顔がマスク越しではなく直に見れる日が早く来てくれることを心から願っています。
滝のように降る雨、体温を超える高温、そして猛烈な台風など優しさを失い壊れてしまった四季の中で、時の移ろいを健気に知らせてくれる風物詩のひとつひとつがとてもいとおしく思われます。
いつの間にかヒグラシの声が混じるようになった蝉時雨が今日も外階段に降り注いでいます。
2020年9月1日 院長 山下直樹